とあるモーニング娘。ファンの13年のファン活動史 1

別にファンを辞めるわけではありませんが、一区切りとしてここで約13年間の私自身のファン活動について印象的だったこと、転機となったことを中心にできるだけ簡単に振り返ってみようかと思います。

予定
(1) 1997〜 モーニング娘。との出会い
(2) 1999〜 ヲタについて
(3) 2000〜 アップフロント山崎氏

(4) 2001〜 2ちゃんねる時代
(5) 2002〜 ライブ参加回数の抑制
(6) 2004〜 ブログ時代

(7) 2005〜 久住小春の登場
(8) 2006〜 国民的アイドルの終焉とAKB48
(9) 2008〜 スタンスの見直し

(1) 1997〜 モーニング娘。との出会い
ASAYANは好きな番組でほぼ欠かさず観ていたので、1997年春〜夏のロックボーカリストオーディションからリアルタイムで観ていました。ただそのときは番組の企画の一つとして楽しんでいただけで、手売りなどの現場に行こうという気は起こりませんでしたが。
1998年5月、別アーティスト目的でポップジャムの公録に行く機会があり、そこで初めてモーニング娘。を直に観ました。2ndシングル「サマーナイトタウン」を披露した公録で「これがあの「なっち」かぁ」というのがファーストインプレッションでしたが、私がモーニング娘。を歌い手として意識したのはこのときからです。1998年7月12日のファーストライブも迷わずチケットを買って行きました。昼公演は2列目でとにかくめちゃめちゃはしゃぎまくって楽しかった!
それから本格的にファン活動を開始し、ファンサイトの掲示板に書き込みをはじめて、そこの知り合いとイベントに行くようになりました。以後しばらくはファンサイトの掲示板を拠点に活動することになります。

(2) 1999〜 ヲタについて
1999年は福田卒業〜後藤加入〜「LOVEマシーン」ヒットと、シーンが順調に盛り上がりをみせて、私もせっせと現場に通っていました。この頃はライブだけでなく公録に参加することも多かったですね。
ただモーニング娘。の人気が増すにつれて現場で傍若無人に振る舞う人も増えてきました (といってもその後に比べればこの頃はまだかわいいものでしたが)。当時の私には、アイドルを観たり歌を聴きに行くのが目的なのにどうして暴れたり周りの人が迷惑する行動を平気でするのかサッパリわかりませんでしたが、1999年8月27日の千葉市文化会館のライブで突然気がついたのです。この人たちが現場に来るのは自己顕示が主目的なのだと。そして自己顕示が主目的なのだから周りの人に迷惑かけたり引かせたりするのは、それ自体が手段なのだから当然で、その人たちに何を期待しても無駄だと。
結果的にこの時点でそれに気付いたおかげで今日まで現場に通い続けることができました。その後も現場は環境が劣悪化し続け、普通にモーニング娘。を視聴しにきた人を幻滅させて駆逐する一方でしたが、私にはそれは想定内の出来事で、以後大して失望することもなかったからです。

(3) 2000〜 アップフロント山崎氏
「LOVEマシーン」ヒットによりモーニング娘。は最盛期を迎え、ライブ会場もアリーナ会場が増えてきました。私も初の沖縄遠征をはじめとしてせっせと現場に通ったりメディアチェックしたりしてました。
そんな中、2000年4月にはその後後継番組含めて8年半続くことになるレギュラー番組「ハロー!モーニング。」がスタートしたのですが、しばらくしてこの番組に関連して、アップフロントの山崎氏が「サイゾー」誌のインタビューの中で、「今後は創り側となり成長過程ではなく芸を売りにしていく」といった趣旨の発言をしたのです。私がアップフロントの方針にはじめて疑問を感じたのはこのときでした。素人の女のコ集めてきて何言ってるのかと。それならはじめから完成している人を連れてくればいいでしょと。
山崎氏の方針は心構えとしては一見とても立派ですが、素人に限りなく近いアイドルの活動方針としては全く実情と合っておりませんでした。アップフロントはAVEXのような尖った企業ではなかったため、そうは言いつつもその後も成長過程についてはそれなりに売りにしていて、急激な変化がなかったのは幸いでしたが、この方針はその後も生き続けて、次第に興行中心主義と相俟ってメンバーやスタッフが「歌とダンスと芝居をしっかりやっていればいい/やらせていればいい」と都合良く曲解して、バラエティ番組をはじめとするメディアの軽視と、メンバーのトーク力をはじめとするバラエティ適応力の著しい低下を招き、モーニング娘。がつまらないアイドルとなり衰退してゆく遠因となりました。

とあるモーニング娘。ファンの13年のファン活動史 2
とあるモーニング娘。ファンの13年のファン活動史 3